焚書の時代に抗うために(岡本マサヒロ)
 
本を焼却する行為を焚書という。かつて椎名誠は文庫本一冊でご飯を炊くことができると何かに書いていたが、それは無人島などで生き延びるためのサバイバル技術であり、そのような行為は焚書とは呼ばない。一般的に焚書とは、支配者や権力者が思想弾圧などを目的として本を焼き払うことを指す。同じ目的であれば本を強制的に廃棄すれば焚書と呼ばれることもある。何ともおぞましい行為である。今回のテーマは焚書である。
なぜ焚書のことを書こうと思ったかというと、先日、高知県立大学の図書館で、戦前の郷土関係の資料を含む三万八〇〇〇冊もの本が組織的に焼却処分されてしまったからである。建て直した新しい図書館の蔵書スペースが縮小したため入りきらない蔵書を処分したというが、他に本をいかす手段はなかったのだろうか。これは焚書の目的が思想弾圧というわけではないが、安易に本が焼却されてしまったことに悲しみと憤りを禁じ得ない。
 
本を焼き払うことを歴史的にみると紀元前二一三年の秦の始皇帝による焚書坑儒まで遡ることができる。今からおよそ二二〇〇年前である。統治者にとって都合の悪い書籍が焼かれてしまうとともに、政権を批判する儒者四六〇人が生き埋めにされた。
ナチス・ドイツによる焚書のことも私たちは忘れてはならない。一九三三年、ナチスにとって都合の悪い本やユダヤ人によって書かれた数万冊の本が扇動された学生らによって燃やされたのである。そのなかにはユダヤ人であったアインシュタインの書物やハイネの詩集などもあったという。
 
日本における焚書及び本に対する弾圧の例をあげてみよう。一九一〇年の韓国併合のときには、朝鮮人の民族意識をなくすことを目的とし朝鮮語の書籍が押収され二十万冊もの本が焚書されている。このとき朝鮮語は外国語扱いにされ、また朝鮮人による自主的な教育運動も弾圧されている。日韓併合は合意に基づくものであり侵略ではないとの議論があるが、こうした事実を知るとそうとも言えない気がする。
また一九二五年に制定された治安維持法では、マルクス主義の本を持っているだけで多くの学生が検挙された。のちにウィーン大学に留学し、戦後日本の文化人類学立ち上げに貢献した石田英一郎も一九二五年マルクス主義の勉強会(社会科学研究会)に出入りしており逮捕されている。これは日本内地で治安維持法が適用された初めての例である。
 
戦後になってからはGHQによって焚書がなされている。その目的は、日本の歴史を消し去り、連合国によって都合のよい歴史を日本人に刷り込むことであったとみられている。私たちはアメリカによって民主主義がもたらされたと思いがちであるが、焚書や思想弾圧は民主主義とは矛盾するものであることを認識しておく必要がある。
さて戦後からしばらくした昭和三〇年代にも日本で焚書はなされている。それは悪書追放という名のもとに各地のPTAなどが手を貸し全国規模で展開し、手塚治虫の代表作「鉄腕アトム」も焚書の対象になった。手塚の描く未来の様子を「荒唐無稽」、「デタラメを描く、子どもたちの敵」と評した者もいたという。このような漫画バッシングは権力者によってなされたのではなく、善意のもと父兄らによってすすめられたからなお厄介である。
最近の例では。二〇一二年に中沢啓治の「はだしのゲン」が、子どもたちに誤った歴史認識を植えつけるという理由で学校図書館から消えた事件が記憶に新しい。
 
このように焚書は、秦の始皇帝やヒトラーの時代だけのものではなく、現代を生きる私たちの身の回りの問題でもある。読みたい本が自由に読めない、好きな本を所有しているだけで逮捕されてしまう、そんな時代とならないことを願いたい。この週末図書館というささやかな取り組みは、焚書に抗うための小さな砦でありたい。
最後にナチスドイツの焚書の対象とされたハイネの詩集の一説を紹介しよう。「焚書は序章に過ぎない。本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる」。私たちは本を焼かせてはけっしてならない